第九期 試練時代
平成 6年 〜

勝率2割そこそこに低迷 再び円山球場に帰らず たくぎん
経済状態に左右される宿命 NTT北海道 クラブチーム登録
クラブチームの増加は全国推移と同様傾向に サンワード貿易が新加盟
栄光の球史閉じる 大昭和北海道 社会人とプロの試合実現
55年の球歴に幕 新日鉄室蘭 2大公式大会に64年ぶりJR北海道、2年目サンワード貿易

アイコン 勝率2割そこそこに低迷
  平成6年以降の都市対抗本大会における道代表チームの勝星は、たくぎんとNTTの各1勝のみで2勝12敗・勝率1割4分3厘。この勝率は全国16予選地区別では最下位である。日本選手権でも、ヴィガしらおいの2勝と室蘭シャークスの1勝で3勝12敗・勝率2割に低迷している。
 その最も大きな要因は、平成6年3月17日に大昭和北海道が休部し、ヴィガしらおいに名称変更、同年8月2日に新日鉄室蘭が休部し、同16日に室蘭シャークスが誕生、8年7月1日にたくぎんが解散し、昭和38年から5強時代を形成してきた5チームのうち、3チームの名が消え、約30年にも及ぶ5強時代が終焉したことである。
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アイコン 経済状態に左右される宿命
  日本社会人野球連盟創立時(昭和24年・【1949年】)加盟の342チームのうち、今日も活躍中なのは約10%の33チームであり、企業スポーツは経済状態の変化に大きく左右される宿命を有している。
 平成11年現在の加盟チーム数は、設立時とほぼ同じの320であるが、企業チーム196(昭和38年:237)が113(専門学校8校含む)、クラブチーム146(同76)が207となっており、近年、景気低迷を反映し、企業チームの減少が著しく、一方、クラブチームが増加している。
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アイコン クラブチームの増加は全国推移と同様傾向に
  本道においても、最高は昭和34年の24チーム(企業19・クラブ5)、最小は51年の12チーム(企業10「自衛隊1含む」、クラブ2)、全国の推移と同様の傾向を示している。
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アイコン 栄光の球史閉じる 大昭和北海道
〜 町民球団・ヴィガしらおいに生まれ変わる 〜
  最後の試合で2勝挙げる
平成5年11月29日、大昭和北海道野球部の休部が伝えられた。その5日後の12月4日に白老町公民館で「大昭和北海道野球部の存続を願う町民の集い」が開かれ、会場は1300人の町民で埋まり、存続署名はこの日までに前回を上回る1万5182人の多きに達した。

 この日、「現状の存続が不可能なら白老町民のチームとして再生・存続を。選手たちが活躍できる環境を町民こぞってつくり上げよう」を内容とする決議文が参加者全員によって採択された。翌6年3月17日、「町民野球部ヴィガしらおい結成大会」(谷島哲郎会長)が開かれ、大昭和北海道野球部は白老の町民チームに生まれ変わった。

 平成7年の都市対抗道予選では、初戦の新王子に逆転サヨナラ負けを喫し黒星スタートだったが、その後、打線の活躍で第1代表となり、クラブチームとして全足利クラブ(昭和53年)以来、17年ぶりとなる本大会出場の快挙を成し遂げた。代表を決めた試合終了後の瞬間、スタンドは総立ちとなり、涙を流しながら「この時を待っていた」と叫んでいた白老の人々の姿が印象に残る。

 平成9年12月3日、多くのファンに夢と希望を与えつづけた「ヴィガしらおい」は、惜しまれつつ4年間という短い歴史に幕を閉じた。 尚、大昭和北海道として最後の試合となった平成5年の日本選手権では、1回戦の四国銀行を延長12回表に高木の決勝スクイズで8-7、2回戦の日本新薬戦は桐木が9奪三振の完投で3-1で降したが、準々決勝では日産自動車に3-1で惜敗した。日産自動車の監督は、奇しくも大昭和北海道の黄金時代を築いた一人である村上忠則だった。

 大昭和北海道野球部の足跡は、都市対抗本大会出場17回、32勝16敗、優勝1回、準優勝2回、ベスト4進出2回、日本選手権出場13回、14勝13敗、準優勝1回、ベスト4進出1回であった。
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アイコン 55年の球歴に幕 新日鉄室蘭
  昭和14年(1939年)創立の新日鉄野球部は、平成6年8月2日、55年にわたる歴史に幕を閉じた。
その直後の同月16日、関係者の熱意と支援によりクラブチーム「室蘭シャークス」が誕生した。室蘭シャークスは、創部3年目の平成8年の日本選手権道予選の代表決定戦の対NTT北海道戦、4点リードされた8回裏に梅田の満塁ホームランで同点、1点勝ち越された12回裏、DH桑原拓志(道都短大)が劇的サヨナラ安打を放ち、7-6で逆転勝ちした。
 クラブチームになった後は、3交代の職場もあり、勤務前、勤務後に個人で練習、全員がそろっての練習もままならない中にあって、仕事と野球を見事に両立。加藤徹監督(道都大・元日産)を中心に、全選手の闘魂で手にした涙の全国大会出場の切符だった。昭和50年以来25年の間、チームを陰で支えつづけている稲場孝マネージャー(芦別工高)の存在も見逃せない。
本大会、初戦のシダックス戦は、キューバで通算187勝の剛椀・デラトーレと嘉手苅の息詰まる投手戦となったが、9回裏、チーム4本目の安打出塁の黒木を梅田が左中間を深々と破る二塁打で還し、1-0でサヨナラ勝ち。クラブチームとしては一昨年のヴィガしらおいに続き、大会史上2度目となる初戦突破を果たした。2回戦の住友金属戦は、序盤に6点をリードしたが、投手陣の出来がいま一つで逆転され惜しくも7-8で敗れた。シャークス軍団のプレーは、この大会で優勝の住金・筒井大助監督をして、「一番苦しい試合だった。室蘭のひたむきさは本当に勉強になった」と言わしめた素晴らしいものだった。
同年、中原賞が室蘭シャークスに送られた。尚、新日鉄室蘭野球部の足跡は、都市対抗本大会出場18回、15勝18敗、準優勝1回、ベスト4進出1回、日本選手権出場11回、4勝11敗、ベスト4進出1回のほか、産業対抗で準優勝1回である。
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アイコン 再び円山球場に帰らず たくぎん
  狂喜し、多くの人が泣いた
平成8年6月29日の都市対抗道予選最終日、最終試合のたくぎん対NTT戦はたくぎんにとって敗れれば、数々の栄光を手にしてきた46年の歴史に終止符を打つ、最後の試合となる1戦であった。

この試合、NTTが5点リードで9回裏を迎えた。たくぎんはベンチ入り選手22人のうち既に1次予選で右手親指骨折の前川静次を除き21人が試合に出場。その上、2死無走者となり敗色濃厚だったが、ここから「奇跡」のドラマが始まった。木村尚大(八幡商高)が安打で出塁、代走に前川を起用、大間啓と稲場勇樹(駒大)の連打で1点、山上吉樹(東海大四高)と高橋伸二(東海大四高)が連続四球、青木久典(法大)と知念剛(日大)の連打ですでに同点、なおも土井公之(亜大)の中前打で逆転サヨナラと思われる場面は惜しくも青木が本塁で憤死した。まさかの延長に1塁側のたくぎん応援団は熱狂し、多くの人が泣いた。

10回から代走の前川に代わり左翼の守りにつき、打席にも立って1塁にヘッドスライディングを見せた西山竜二は、コーチ兼任で試合出場は実に4年ぶりだった。試合は、10回に遠藤友の2ランで7-5でNTTが勝ったが、たくぎんの9回裏2死無走者からの猛反撃は、本道社会人野球史に燦々と輝く感動の場面であった。

たくぎんナインは、NTTと新王子の選手と握手を交わし、スタンドの大歓声の拍手に見送られグラウンドを去った。その後セレモニーが1時間余にわたり行われたが、それを最後まで見守りつづけた三塁側NTT北海道応援団の姿が印象に残る。

著者は閉会式で、「1年でも早くたくぎんのマークを胸にしたチームが円山に帰ってくることを願う」と、惜別の情を禁じ得ず、込み上げてくる涙を押さえながら、送別の言葉を述べた。この願いは拓銀の破たんでかなえられないものとなった。

たくぎん野球部の足跡は、都市対抗本大会出場20回19勝20敗、準優勝1回、ベスト4進出1回、日本選手権出場10回、16勝9敗、優勝1回、準優勝1回、ベスト4進出1回のほか、産業対抗で優勝1回である。
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アイコン NTT北海道 クラブチーム登録
  台頭期から最盛期を経て熟練期までの間、都市対抗本大会の本道代表チームの成績は、通算139試合77勝62敗・勝率5割5分4厘である。このうち、大昭和、新日鉄、たくぎんによるものは、通算107試合62勝45敗・勝率5割7分9厘で、勝星の81%を占めている。この成績に代表されるように、この3チームの消滅は、本道社会人野球にとって大きな痛手となった。

加えて、5強の一角を占めていたNTT北海道が平成11年8月24日、社の分割・再編成に伴い、昭和31年に発足以来44年間続けてきた会社登録をクラブ登録に衣替えし、名称をNTT北海道硬式野球倶楽部とした。

同時期に、40年の伝統あるNTT北海道応援団も解散し、翌年同好会化し「NTT北海道応援団同好会CHAMP」と改称し、今もNTT北海道野球部の陰の支えとなっている。
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アイコン サンワード貿易が新加盟
  平成10年1月26日、サンワード貿易が新たに加盟した。同チームには、ヴィガしらおいから渡部勝美監督、太田英次マネージャー(北学大)、若松敦治(東北福祉大)、たくぎんから、萩原充史(釧路北高)、松村朋宏(拓大)、鷹架賢司(札商高)、前川静次の両捕手、狐塚賢浩、土井公之の両内野手、木村尚大外野手の10人が移籍した。
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アイコン 社会人とプロの試合実現
  前述の人たちを中心に道連盟は、次々と斬新な企画を立て、それを実行に移してきた。平成8年7月29日、苫小牧市営緑ケ丘球場で「社会人・プロ野球交歓試合」を行った。成績は北海道選抜(高岡茂夫監督)が対横浜ベイスターズ13-8、巨人軍9-6で連勝した。苫小牧市の協力とイースタンリーグで来道した両チームの好意で実現したものである。
 社会人とプロの試合は、本道にとっては昭和17年ぶり、全国でも21年以来50年ぶりであり、日本野球連盟としては設立以来初の事であった。なお、その前日には、本道の選手が稲川誠(元太洋)、谷木恭平(元中日)、村井英司(元日ハム)から指導を受けた。
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アイコン 2大公式大会に64年ぶりJR北海道、2年目サンワード貿易
  今までの努力が徐々に実り、JR北海道が平成10年の都市対抗道予選で王子を破り、昭和9年(1934年)以来、実に64年ぶり3回目の本大会出場を果たし、サンワードが11年の日本選手権道予選でNTT北海道硬式野球倶楽部を破り、昭和34年(1959年)の都市対抗道予選における羽幌炭鉱以来、40年ぶりとなる創部2年目にして全国大会の切符を手にするなど、新しい芽が出てきた。
 さらに、平成7年以降11年までの都市対抗道予選の2次リーグ戦には、JR北海道と日本製紙旭川が各4回、航空自衛隊千歳とシャークスも初めて進出した。この間、JR北海道は王子を2回、日本製紙は王子とNTTを各1回倒し、王子、NTTの2強に迫り、シャークスは2勝、自衛隊も1勝し、これにサンワードを加えた5チームが力をつけ、21世紀初頭に向け光明が見えてきた。尚、平成11年11月12日、航空自衛隊千歳を市民ぐるみで支援する「千歳同夢(ドーム)会」(浅沼廣幸代表)が発足した。
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以上、「日本野球連盟北海道地区連盟 50年史」より抜粋
























以上