第七期 最盛時代
昭和49年 〜 昭和56年

金属バット採用で「打高投低」に突入 ・ 名勝負生んだ中島球場解体 ・ 道連盟30周年に花添える
高梨、夏通算の9号 ・ 札幌トヨペットが快挙!初の都市対抗で準優勝 ・ 戦後を代表するホームラン王

アイコン 金属バット採用で「打高投低」に突入
  この時期から、これまでの5強に加え、札幌トヨペット、日産サニー札幌、札鉄、昭和54年に加盟した山陽パルプ(現平成12年解散の日本製紙旭川)のチーム力が向上し、一段と層が厚くなった。都市対抗道予選は、5チームによる第2次リーグ戦出場の座を巡る第1次予選も激戦の様相を呈してきた。ちなみに、平成5年まで続いた5強時代において、日産5回、トヨペット4回、札鉄3回、山陽国策が1回、5強の一角を倒し2次リーグに進出した。この間、昭和49年に産業対抗野球大会に代わり、社会人日本選手権大会、昭和51年には全日本クラブ対抗野球大会(平成2年・全日本クラブ野球選手権に改称)がそれぞれ誕生。54年から金属バット使用が採用され、打高投低の時代に入った。
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アイコン 名勝負生んだ中島球場解体
  本道では、昭和49年にキューバチームを招き夕張と札幌で北海道選抜が対戦、53年に連盟結成30年記念祝賀会を開催、55年には数々のドラマを生んできた札幌・中島球場が解体されることになり、「北海道社会人野球OB紅白戦」を開催し、中島球場に別れを告げた。
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アイコン 道連盟30周年に花添える
  昭和53年(1978年)、拓銀は、単独チームで日本一の座を競う社会人野球日本選手権大会で優勝した。初戦の電電中国戦は7回裏、山本の適時打で7−3、続いての大倉工業戦は延長14回裏、梅田の押し出しとなる四球で3−2、準々決勝の日産自動車戦も延長13回表、竹内の2点タイムリーで6−5、準決勝の松下電器は8回裏、金谷、山本、坂田の連打で3点を上げ4−1で勝ち、4試合連続の逆転勝の離れ技を演じた。決勝の東京ガス戦は、その年の都市対抗で17奪三振の新記録を立てた松沼博久(後に西武)と山口の緊迫した投手戦となり、両軍無得点のまま迎えた9回表、高岡の四球と梅田の一塁強襲安打で一死1、3塁、続く丸山の浅い右飛でホームを狙った高岡の果敢な走塁が捕手の落球を誘い、それが決勝点となり、1−0で優勝を飾った。拓銀の底力と粘り強さは、4試合連続逆転勝ちと決勝の緊迫した接戦をものにし、初めてダイヤモンド旗が北の都・札幌の地に輝き、その年に迎えた北海道地方連盟創立30周年に花を添えた。当時、全国Aクラスチームの多くの関係者から、対戦する相手チームで「最も嫌なチームと思うのは大昭和北海道、最も強いと思うチームは北海道拓殖銀行」という声を耳にしたものである。
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アイコン 大昭和の高梨、夏通算の9号
  高梨は、ヨークベニマル戦に本塁打を放ち、2本塁打した村上とともに個人通算本塁打4を記録、夏の都市対抗でも9号本塁打を放った。高梨38歳のときでもある。この年の12月10日、大昭和北海道野球部休部の衝撃的な発表がなされた。
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アイコン 札幌トヨペットが快挙!初の都市対抗で準優勝
  昭和55年の都市対抗で準優勝した札幌トヨペットの快進撃は、その年の8月に世界アマチュア野球選手権大会が東京で開かれたため、”晩秋の球宴”となった。札幌トヨペットは、第1次予選で王子、第2次予選で電電、新日鉄を降して後楽園の切符を手にした。本大会では、新日鉄名古屋を0−4から逆転して調子にのり、東京ガス、川崎重工、新日鉄釜石を撃破し、決勝で大昭和富士に敗れたが、初出場で白獅旗獲得の殊勲を立てた。王子から補強の樋口博美の力投が原動力となり、宮崎一夫監督(逗子開成高−毎日オリオンズ−羽幌炭鉱)の好采配が光った。一方の第1代表大昭和も準決勝に進み本道チーム同士の優勝戦が期待されたが、大昭和富士との兄弟対決に惜しくも2−3で敗れた。

〜 5連投4勝の樋口 〜
王子製紙苫小牧から札幌トヨペットに補強された28歳の樋口博美投手は、速球とシュートを武器に決勝まで5連投し、4勝を挙げて久慈賞に輝く。(「都市対抗野球大会60年史」から抜粋)
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アイコン 戦後を代表するホームラン王
  〜20年間で通算113本 41歳で栄光のバット置く〜
北海道社会人野球を代表する選手は、戦前が函館太洋倶楽部の久慈次郎なら、戦後は大昭和北海道の高梨英夫である。高梨は、昭和36年に大昭和の本社チーム(静岡)に入り、39年に白老に移ってから59年までの20年間(57年休部)、道社会人野球界で現役選手を続けた。
この間、通算本塁打113本(公式戦68本・1299打点)、都市対抗本大会では9本塁打(うち木のバットで6本)、日本選手権でも5本塁打(同1本)、都市対抗道予選では26本塁打(同16本)の記録を残し、栄光の長距離打者は41歳でバットを置いた。奇しくも久慈次郎と同じ年齢である。「都市対抗野球大会六十年史」(平成2年発行)の中で、元毎日新聞社運動部記者の松尾俊治が、”都市対抗のヒーロー”と題する一文を寄稿している。その中で戦前チームと戦後チームのベストナインを選んでいるが、高梨を”戦後の都市対抗ホームラン王”と激賞し、戦後チームの「一塁手」に選んでいる。ちなみに、戦前チームの「捕手」は久慈次郎である。高梨は現在、札幌第一高校監督として球児の指導に当たっている。
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以上、「日本野球連盟北海道地区連盟 50年史」より抜粋
























以上