第五期 胎動時代
昭和30年 〜 昭和37年

本州Aクラスのレベルに近づく兆し ・ 本道初の全国大会が成功

アイコン 本州Aクラスのレベルに近づく兆し
  昭和30年から都市対抗の本道代表枠が1チームから2チームになった。31年に富士鉄、32年に拓銀、34年に王子、羽幌がそれぞれ代表権を初めて獲得し、本格的な企業チーム時代に入った。都市対抗代表チームの成績は、東圧5回、富士鉄4回、拓銀3回、王子2回、樽協・羽幌チームが各1回出場し、通算4勝16敗(29年まで6勝23敗)だったが、この次期に、従来の壁を突き破ろうとする新しい動きが出てきた。この間、都市対抗で東圧、富士鉄、拓銀が初勝利を飾り、東日本大会では拓銀が2度優勝、富士鉄と東圧が各2度準優勝、産業対抗で拓銀がベスト4に進出するなど、この3チームが着実に力をつけ、全国Aクラスに近づいてきた。この3チームに対して、結成大会初優勝、2回の都市対抗代表権獲得などチーム力が向上した王子、創部2年目で史上最北端のチームとして都市対抗に出場した羽幌、31年に創部して4年目で全国電電公社大会に優勝した電電北海道(現NTT北海道硬式野球倶楽部)が追う展開となった。これに、北炭夕張、三井砂川、三井芦別などの炭鉱チームなども前記の6チームにとって気の抜けない存在として活躍し、本道社会人野球は一挙に層が厚くなり、レベルアップが図られた。なお、昭和31年の電電北海道のほか、37年に大昭和北海道、帯広自衛隊(38年解散)、旭川自衛隊2師団(38年解散)、自衛隊北方方面隊(41年解散)が加盟した。
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アイコン 本道初の全国大会が成功
  この時代に特機すべきことの一つに、昭和33年、当時数少なかった公認の全国大会であったベーブ・ルース杯争奪選抜都市対抗野球大会を誘致し、室蘭富士鉄球場で開催した事である。高松宮殿下をお迎えしての開会式、連日超満員で盛り上がった大会の成功は、北海道でも全国規模の大会を立派にやれる事を全国の野球関係者に示した。室蘭製鉄所厚生課長だった木下新吉氏は開会式の模様を、「早朝からスタンドを埋め尽くしてた大観衆。前年優勝の熊谷組を先頭に参加16チームの堂々の入場行進。息もつかせぬ花火の連発。開会宣言、数百個の七色の風船が一斉に放たれ上空に舞い上がる。国旗掲揚、大会長挨拶、宮様のお言葉、選手も観衆もまさに感激の極致だった。数十羽の鳩が放たれ始球式。鳴り止まぬ万雷の拍手と耳をろうする大観声。感激的シーンの連続、まったく豪華爛漫の開会式だった」と記している。昭和29年の第1回東日本大会も室蘭富士鉄球場で成功裡に行われた。この両大会の成功は、富士鉄室蘭製鉄所及び同所関係者の並々ならぬ協力に負うところが大きかった。二つ目は昭和36年4月20日、既にシーズンに入った次期に、中日が日本生命の主軸打者と契約し、入団を発表。これに端を発してプロ・アマの関係が断絶状態になり、それまで社会人野球でプレーすることができたプロ野球退団者の受け入れができなくなったことである。この件は、その後、昭和53年に監督・コーチ(1チーム2名以内)に限り受け入れを認めることになり、平成11から選手についても、38年ぶりに登録(1チーム2名以内)ができるようになった。
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以上、「日本野球連盟北海道地区連盟 50年史」より抜粋
























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