第四期 再建・変革時代
昭和20年 〜 昭和29年

戦後いち早く復活、社会人野球 ・ 北海道地方連盟の創設 ・ 結成記念と東日本の2大会を創設
再建期に貢献、炭鉱チーム ・ 着実に力量向上、東洋高圧 ・ 富士鉄が全国Aレベルに ・ 創部直後の王子と拓銀

アイコン 戦後いち早く復活、社会人野球
  昭和20年8月15日の終戦から僅か1ヶ月半後の9月30日に札幌鉄道局−札幌倶楽部、10月7日に札幌鉄道局、小樽協会、札幌倶楽部による実業団対抗試合が行われ、本道社会人野球はいち早く復興した。
昭和20年には都市対抗野球大会が4年ぶりに復活し、その道予選や全道実業団、炭鉱野球、スイング杯争奪、22年には東日本実業団選抜といった大会が開催され、本道社会人野球は一挙に終戦前を上回る活況を呈した。
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アイコン 北海道地方連盟の創設
  昭和21年の都市対抗野球大会の開催と同時に、戦前からあった社会人野球の全国統一組織結成の声が再び高まり、24年2月16日、「社会人野球の健全なる普及及び発達並びに会員相互の親睦を図ることを目的する」との旗印のもとに、全国を9地方連盟とし、342の加盟チームをもって「日本社会人野球協会」が発足した。
北海道では、これに伴い昭和21年に設立された北海道野球協会を発展的に解消して、新たに北海道地方連盟を創立、組織を道内6支部とし、17の加盟チームをもって日本社会人野球協会の傘下になり、道内連盟出理事に砂原文雄が就任した。
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アイコン 結成記念と東日本の2大会を創設
  日本社会人野球協会設立後、都市対抗では昭和25年に、第一次予選、第二次予選でそれぞれ5人ずつ、合計10人まで補強できる制度(52年から計5名までに変更)が設けられた。
 また、同年、戦後初の国際試合である第1回ノンプロ両半野球選手権大会が行われ、都市対抗優勝の全鐘紡を中心とした全日本チームが出場した。26年には業種別代表で覇を競う日本産業対抗野球大会(48年終結。49年社会人野球日本選手権大会に移行)が誕生するなど、国内、国外の事業の充実が図られた。
 本連盟においても、昭和24年に日本社会人野球協会北海道地方連盟結成記念大会を創設した。この大会は同年6月14日、円山球場で開会式(参加15チーム)が行われ、小樽野球協会の川崎信一主将が力強く宣誓しスタートを切った。
 昭和29年には、本道では初の全国的規模の選抜都市対抗野球東日本大会(昭和45年・全国社会人野球北海道大会に改称)を創設、第1回大会を室蘭富士鉄球場で開催した。
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アイコン 再建期に貢献、炭鉱チーム
  連盟創立後の昭和25年から企業チームの加盟が相次いだ。王子製紙、拓殖銀行、ホクレン、炭鉱関係の三井芦別、三井美唄、国鉄の釧路鉄道局、青函鉄道局である。これも企業チーム中心への転換を加速させた。その後も炭鉱関係は31年には住友赤平、北炭赤間、33年には羽幌炭鉱が加わり、総計10チームに及んだ。
 なお、同時期、江別イーグルス、滝川クラブ、岩見沢クラブ、名寄野球協会、北見野球協会、帯広コマーシャルの7クラブチームが加盟した。このような状況の中で、企業チーム許可の先導的役割を果たしたのは三井砂川と、北炭夕張であった。
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アイコン 着実に力量向上、東洋高圧
  昭和20年代後半には、東圧と富士鉄が本州のAクラスチームに伍して戦えるチーム力を整えた。東圧は昭和25年から強化に乗り出し、3年目の27年に都市対抗道予選を制した。都市対抗誕生後初の民間企業チームの代表権獲得であった。
 東圧は、翌28年も代表権を獲得し、本大会では優勝した大昭和製紙吉原と対戦、敗れたとはいえ4−6という好試合を演じた。29年の第8回ベーブルース杯争奪選抜都市対抗野球大会では、日本生命を2−0で破り、日本石油には0−2と善戦し、日本産業都市対抗野球大会にも26年から全東圧(砂川、大牟田、彦島)で連続出場して全国大会の経験を積むなど、着実に全国Aクラスに近づいた。
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アイコン 富士鉄が全国Aレベルに
  富士鉄も同時期に強化に乗り出した。
当時、全国選抜大会の出場は全国Aクラスチームに限られていたが、富士鉄は、昭和26年の第5回ベーブルース杯争奪選抜都市対抗野球大会に本道チームとして初めて出場しいきなり準優勝(殊勲賞、青池、砂押)して本州の関係者を驚かせた。翌年は選抜都市対抗野球サン大会(現全国社会人野球東京スポニチ大会)でベスト4に進出(最高打点賞3試合9打点・横関)、全国鉄鋼野球大会では住友金属、日本鋼管を破り優勝(最高殊勲賞・田畑)し、日本産業対抗野球大会に出場。29年の第1回選抜都市野球東日本大会で準優勝(敢闘賞・横関)した。この間、北海道の野球は弱いという本州関係者の声を払拭した富士鉄の功績は大きいものがあった。
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アイコン 創部直後の王子と拓銀
  この次期、王子は都市対抗道予選と結成大会の準優勝各1回だったが、根岸幸男監督(慶大)のもと、西浦清輝(苫工)、松田芳一(札商)−金子正(苫工高)のバッテリー、田村昭三塁手(苫東高)、菅原道雄外野手(苫工)が中心だった。昭和26年の都市対抗道予選決勝進出の拓銀では漆畑良雄投手(静岡商高)のプレーが目立った。
 このほか、昭和26年の結成大会準優勝の帯広協会では、渡部福太郎ニ塁手(善隣中)の好守好打と4試合完投の阿部八郎(国立中)の力投が光った。東大出選手第一号の佐坂正平は、旭川グレートベア−ズでプレーし、拓銀監督も務めた。
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以上、「日本野球連盟北海道地区連盟 50年史」より抜粋
























以上