昭和15年、球史に残る名勝負 | |
昭和に入って早々に、後述の都市対抗野球大会が誕生した。大正12年に生まれた全道実業団野球大会は年を追うごとに盛況になり、昭和4年に樺太(現在のサハリン)のチームも参加し、名称も全道樺太実業団野球大会と改められた。 この大会では、昭和に入って台頭してきた札幌鉄道局が昭和2年の第5回大会から3連覇を達成してきたが、14年の17回大会の1回戦で悲劇が起きた。函館太洋−札幌倶楽部の試合中、久慈次郎が球禍に見舞われ、不慮の死を遂げたのである。 この大会は、翌15年の第18回大会で幕を閉じたが、この年に球史に残る名勝負があった。函館太洋−全旭川戦、延長27回の熱戦である。この試合は函館太洋が3−2で勝利を収めたが、太洋・山田三郎、旭川・高野一馬の両投手が一人で投げ抜いた。山田三郎は、久慈次郎の弔い合戦となる決勝の対札幌倶楽部でも熱投し、函館太洋がこの大会の追尾を飾った。 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 計 | |
太洋 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 |
全旭川 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
太洋 | 山田三郎−伏見五郎 |
全旭川 | 高野一馬−結城 蔵 |
昭和17年に函館太洋が全国優勝 | |
昭和17年には、本道社会人野球にとって特筆すべき事があった。第18回明治神宮国民錬成大会(大正13年〜昭和17年・昭和14年から実業団野球参加)野球一般試合で函館太洋が、その年の都市対抗で準優勝の大阪大同製鉄を8−1、3年前優勝の藤倉電線を5−3で破り、念願の全国優勝を果たしたのである。本道スポーツ界にとっても団体競技初の全国制覇であった。 |
創立早々のプロ球団と対戦 | |
昭和初期の出来事で忘れてはならないのは、9年11月8日、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックを中心とした米大リーグ選抜チームと、伝説的名投手沢村榮治を擁した全日本チームの試合が函館湯の川球場で行われたことである。 全日本チームには、函館太洋から主将で久慈次郎捕手、朝倉長投手(早大)、永沢富士雄一塁手(函館商)の3人、それに旭川中学のビクトル・スタルヒン投手が加わっていたこともあり、道民の野球への関心は一段と高まった。この年の12月に全日本チームのメンバーを中心として、日本で初の本格的なプロ野球(当時は職業野球といった)の球団「大日本東京野球倶楽部」(現在の読売ジャイアンツ)が創立された。その翌年に東京巨人軍が来道し、函館太洋、札幌倶楽部、札幌鉄道局、旭川鉄道局と対戦、本道実業団チームの選手を交えた紅白試合も行われ人気を呼んだ。その後、巨人軍は17年まで来道し、ライオン軍、イーグルス、セネタースは13年に来道、函館太洋、札幌倶楽部とも対戦し、野球人気に拍車をかけた。 なお、軟式野球では、昭和14年の第1回明治神宮奉讃全国軟式野球優勝大会で小樽海運倶楽部がベスト8入りし、翌年の第2回大会に王子製紙苫小牧が出場している。 |
以上