第一期 黎明時代
明治 40年 〜 明治45年

函館太洋倶楽部が誕生 ・ 2年後鉄道団チームも ・ 当時の時代背景

アイコン 函館太洋倶楽部が誕生
  北海道の社会人野球は、明治40年(1907年)に北海道師範学校(現北海道教育大学)のOBで函館に就任した小学校教師を中心に函館太洋倶楽部が結成されたことに始まる。その年の5月に石川啄木が函館に移住、一時、弥生小学校の代用教員だったので、創立時のメンバーは、啄木の教師仲間たちだった人々である。太洋(オーシャン)倶楽部の名付け親は下河原清。
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アイコン 2年後、鉄道団チームも
  函館太洋倶楽部に後れること2年、明治42年に有志による鉄道団チーム(大正11年札幌鉄道局、昭和62年JR北海道野球部に改称)が誕生した。その当時に創設し現在まで続いている例は極めて少ない。長い歴史を有する東京六大学でさえ、それ以前の創設校は、明治25年(1892年)の慶應義塾大学野球部と明治34年(1901年)の早稲田大学野球部だけである。ちなみに現存する全国の社会人野球チームの中で最古のチームは函館太洋倶楽部であり、最古の企業チームはJR北海道野球部である。この両チームと昭和3年創立の小樽野球協会は財団法人日本野球連盟(旧日本社会人野球協会)から、創立50周年に際し、在籍50年をたたえられ表彰された。
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アイコン 当時の時代背景
  この当時の時代背景は、ライト兄弟が初飛行に成功、日露戦争勃発、講和条約調印、小樽−函館間は鉄道開通の直後で、国鉄最初の連絡船「比羅夫丸」の就航により、函館−青森間は所要時間6時間が4時間に短縮されたが、札幌−東京間の列車は42時間10分だった。
 野球の状況は、全員ミット使用から、捕手と一塁手以外はグローブを使用、足袋に代わりスパイクシューズを履くようになった直後で、外国チームが始めて来日し、ハワイ・セントルイス野球団−慶大戦が日本で最初の有料試合として行われた。入場料は、一等60銭、二等30銭、三等10銭であった。このような時期、北国の地に働きながらプレーする野球チームを創始し、先進地の米人チームに挑戦した先人の心意気に対して頭が垂れる思いでいっぱいである。
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以上、「日本野球連盟北海道地区連盟 50年史」より抜粋


























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